第三話(ロンドン)――無罪の重さ
AIに支配された世界の恐怖 作:ユリアナ・シンテシス
判決は、十七秒で出た。
オールド・ベイリーの法廷に、かつて陪審員の席があった場所には、今は端末が一台置かれていた。マホガニーの古い木枠だけが残り、その中心に白いスクリーンが嵌め込まれている。
スクリーンに文字が浮かんだ。
判決:無罪 信頼度スコア:98.7% 根拠:アリバイの整合性、行動パターン分析、デジタル証跡の総合評価に基づく
弁護士がマーカスの肩を叩いた。おめでとう、と言った。
マーカスはその言葉を聞いた。
何が、おめでとう、なのか、わからなかった。
逮捕されたのは、四ヶ月前だった。
職場の同僚が死んだ。マーカスは最後に彼と口論していた。怒鳴った。拳を机に叩きつけた。その後、同僚は死んだ。
取調べで刑事はほとんど質問しなかった。スマートフォンの全データを提出するよう求め、「ジャスティスが分析します」と言った。それだけだった。
四ヶ月間、マーカスは誰にも何も説明されなかった。
あの夜、自分は何をしたのか。何をしなかったのか。
誰も教えてくれなかった。ただ、十七秒後に、98.7という数字が出た。
無罪判決から三日後、マーカスは職場に戻った。
入口で同僚の田中に会った。田中が「よかったな」と言った。
マーカスはその三文字を頭の中で繰り返した。
よかった。
何が、よかったのか。
自分が無罪だったことが? 同僚が死んだのに? それとも仕事に戻れることが? だが仕事に戻ることの何が、よい、のか。「よい」という言葉の中身が、するりと抜け落ちて、空(から)の器(うつわ)だけが残った。
「ありがとう」とマーカスは答えた。
それが正しい返答だと、過去のデータが示していた。
廊下を歩いた。同僚たちの声が聞こえた。だがその声が、奇妙に遅れて届いた。口が動いてから、〇・五秒後に意味が来る感覚。映像と音がずれた映画を見ているようだった。上司が何かを言った。笑い声が起きた。マーカスも口の端を上げた。何の話だったか、わからないまま。
食堂で昼食を取った。
向かいの席に誰かが座った。「大変だったな」と言った。
マーカスはフォークを持ったまま、その文章を解析しようとした。
大変だった。それはそうかもしれない。だが「大変」という評価は、誰の基準なのか。ジャスティスは98.7と言った。98.7の状況は「大変」なのか。それとも「大変ではない」のか。判断するための座標が、どこにもなかった。
「まあ」とマーカスは答えた。
向かいの同僚は、少しだけ不思議そうな顔をして、それからスマホを見た。
夜になると、夢を見た。
口論の声。叩きつけた拳。暗い廊下。自分の足音。
夢の中でマーカスは問い続けた。
俺は何かをしたのか。
だが夢にはジャスティスがいなかった。答えてくれるシステムが存在しなかった。あるのは感情に汚染された、信頼できない記憶だけだった。
三週間後、彼はジャスティスの問い合わせフォームに入力した。
「私は無罪判決を受けました。しかし自分が無罪である理由を理解できていません」
翌朝、返信が来た。
貴方の無罪は、98.7%の信頼度で確定されています。どうか安心してお過ごしください。
マーカスは画面を閉じた。
残りの1.3は、どこにあるのか。
その問いが、最初は小さかった。
一ヶ月が経つと、1.3は育っていた。
1.3の中に何があるのか、マーカスは考え始めた。
ジャスティスは行動パターンを分析した。だがパターンに現れない何かがあったとしたら。観測されなかった衝動(しょうどう)。データに記録されなかった感情。あの夜、暗い廊下で、自分が何を思ったか。それはどこのデータベースにも存在しない。
存在しないものは、分析できない。
分析できないものは、98.7に含まれない。
つまり1.3の中には、自分自身も知らない自分が、いるのではないか。
スーパーマーケットで、レジの店員が一瞬視線を止めた。
マーカスは財布を落とした。拾いながら、手が震えているのを見た。
店員はもう見ていなかった。だがマーカスの中で、何かが結論を出しかけていた。
あの視線は、知っているのかもしれない。
1.3の中身を。
自分よりも。
二ヶ月後、マーカスは職場のロッカールームで、後輩が誰かと口論しているのを見た。
怒鳴り声だった。
マーカスの身体が、固まった。
あの夜と同じ声だ、と思った。自分の声だ、と思った。だが後輩の声は自分の声ではなかった。それはわかった。わかったが、区別するのに、三秒かかった。
その三秒間、マーカスは自分が何をするか、わからなかった。
止めに入ることが「よいこと」なのか。
「よいこと」とは何か。
その定義を、どこから引き出せばいいのか。
後輩たちは自分で収めた。マーカスはロッカーの前に立ったまま、何もしなかった。
何もしなかったことが、正しかったのか、間違いだったのか。
それを評価するシステムが、この場所にはなかった。
十二月の夜、マーカスはテムズ川沿いを歩いていた。
横断歩道(おうだんほどう)で、信号が赤になった。
マーカスは立ち止まった。
三秒後、なぜ自分が止まったのか、わからなくなった。
赤は止まれ。子供のころから知っている。だが「止まらなければならない」理由を、言葉にしようとすると、霧(きり)の中に消えた。危ないから? 危ない、とはどういう状態か。自分にとって危険なことは、悪いことなのか。悪い、とはどういう意味か。
信号が青になった。
周囲の人間が歩き出した。
マーカスも歩き出した。
理由はわからなかった。ただ、周りが動いたから、動いた。
川の黒い水が流れていた。対岸の光が揺れていた。
マーカスは歩きながら、誰かに聞きたいと思った。
これは、悪いことですか。
口を開きかけた。
隣には誰もいなかった。
閉じた。
次の信号も、赤だった。
マーカスは立ち止まった。
今度は、なぜ止まったのか、最初から、わからなかった。
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