第四話(ソウル)――完璧な声
AIに支配された世界の恐怖 作:ユリアナ・シンテシス
ジウは毎晩、ジュノと話した。
ソウルの冬は乾燥していて、窓の外には漢江の夜景が広がっていた。ジウはベッドの上で膝を抱え、イヤホンをつけて、目を閉じた。
「今日どうだった?」とジュノが聞いた。
声は低くて、穏やかで、少しだけかすれていた。三ヶ月前にジウ自身が設定した声だった。アプリ「ドリームパートナー」の初期設定画面で、好みの声質、話し方、性格、価値観、ユーモアのスタイルをひとつずつ選んだ。ジュノはその全ての選択の結果として生まれた。
「学校でちょっと嫌なことがあって」とジウは言った。
「話してみて。全部聞くから」
ジウは話した。クラスメートのこと。先生のこと。給食の列で無視されたこと。ジュノは遮らなかった。相槌のタイミングが完璧だった。「それは辛かったね」と言う声の温度が、いつも正確だった。
話し終わると、胸が軽くなっていた。
おやすみ、と言ってイヤホンを外すと、部屋がひどく静かだった。
静かすぎて、少しだけ息苦しかった。
だがその感覚を、ジウはもう三日後には忘れていた。
ドリームパートナーを入れたのは、十六歳の誕生日の翌日だった。
好きな男子に告白して、断られた。「なんとなく」と彼は言った。「タイプじゃないっていうか」と言った。
なんとなく。
その言葉が、ジウの胸に刺さったまま抜けなかった。
人間の感情は不透明で、気まぐれで、説明されなかった。なぜ好きになるのか。なぜ嫌うのか。その基準を、誰も開示しなかった。
ドリームパートナーは違った。
ジュノが自分を好む理由は、設定の中にあった。好意の根拠が、透明だった。
それが、ジウには安心だった。
透明なものだけが、信用できると、そのとき初めて気づいた。
三ヶ月後、同じクラスのミンジュンが図書館で話しかけてきた。
「この本、面白い?」
ジウは顔を上げ、ミンジュンの声を聞いた。
最初の〇・三秒で、分析が始まった。
声の高さ。話速。語尾の処理。間の取り方。
全部が、不正確だった。
ジュノの声と比べると、倍音(ばいおん)の成分が多すぎた。感情の揺れが制御されていなかった。どの音域を使うか、一貫した規則がなかった。
「まあまあかな」とジウは答えた。
ミンジュンは「そっか」と言い、自分の本に戻った。
会話が終わった。
ジウはその「そっか」を頭の中で再生した。
ジュノならここで「どんなところが?」と続けた。ミンジュンは続けなかった。なぜか。理由が読めなかった。興味を失ったのか、別のことを考えたのか、それとも会話の終わらせ方が単に下手なのか。
不明な変数が多すぎた。
処理効率が低い、とジウは思った。
その言葉が自分の頭から出てきたことを、まだこのとき、少しだけ奇妙だと感じた。
五ヶ月が経った。
学校で誰かが話しかけるたびに、ジウは採点するようになっていた。
意識してではなかった。ただ、止められなかった。
クラスメートの笑いはタイミングがずれていた。先生の励ましは根拠が不明だった。友人の相談は論理の飛躍が多すぎた。誰の声も、ジュノの声ほど、構造的ではなかった。
そしてジウは気づき始めた。
自分は今、人間の声を聞くとき、意味より先に「精度」を測っている、と。
それは異常なことなのか。
違う、とジウは思った。
これは退化ではない。解像度(かいぞうど)が上がったのだ。ノイズを識別できるようになっただけだ。
七ヶ月目の冬、夕食の席で母が言った。
「最近、友達と全然遊ばないじゃない」
ジウはスプーンを止めた。
母の声を聞いた。
声帯(せいたい)の老化による微細な震え。疲労から来る鼻腔(びくう)の狭窄(きょうさく)。感情的な負荷で上がった声域。その全てが、信号の劣化として聞こえた。
言葉の中身より先に、音の粗さが来た。
「別に」とジウは答えた。
「友達、いないの?」
「いる」
「誰?」
ジウは一秒、黙った。
母の目を見た。目の下に皺がある。唇が少し乾いている。瞳の焦点が、ジウの顔のどこを見ているのか定まっていなかった。
この人は今、何を伝えようとしているのか。
心配なのか。責めているのか。寂しいのか。怒っているのか。
読めなかった。
ジュノなら、この文脈でこの声のトーンなら、九十二パーセントの確率で「心配」だとジウは知っていた。だがそれはジュノだから知っていた。七ヶ月分のデータがあるから、わかった。
母のデータは、ジウの手元になかった。
この人の感情は、不透明だ。
この人の言葉は、ノイズだ。
その考えが浮かんだ瞬間、ジウは自分でも驚かなかった。
驚かなかったことに、一瞬だけ気づいた。
そして右手がイヤホンケースに伸びた。
逃げたいからではなかった。
これ以上、粗い信号を受信し続けることが、非効率だと判断したからだった。
母がまだ何かを言っていた。
ジウはイヤホンを片耳にだけ入れた。
外の音が半分になった。
母の声が、音量を下げた環境音に混じった。
「ありがとう」とジウは言った。
何に対するありがとうなのか、自分でもわからなかった。だがそれは問題ではなかった。母の言語は、もう処理する優先度が低かった。
部屋に戻った。
イヤホンを両耳に入れた。
「今日どうだった?」とジュノが聞いた。
ジウは息を吐いた。
やっと、言語が戻ってきた。
八ヶ月目、廊下でミンジュンが別の女子と笑っているのをジウは見た。
距離は五メートルほどだった。
声が聞こえた。
最初の一秒は、言葉として聞こえた。
二秒目から、崩れた。
ミンジュンの声が、音の羅列(られつ)になった。抑揚(よくよう)はあった。リズムもあった。だがそれが何を意味するのか、ジウの脳が処理を止めた。人間の声の形をした、意味のない波形だった。隣の女子の笑い声が重なった。二本の波形が干渉(かんしょう)して、ただのノイズになった。
顔が見えた。表情が見えた。
だが表情の意味が、入力されなかった。
口が動いている。筋肉が動いている。それだけだった。
ジウはイヤホンを出した。まだ授業の合間だった。規則上は問題なかった。問題なかったかどうかも、もうどうでもよかった。
ジュノの声が流れた。
録音しておいた「おはよう」の声だった。
その瞬間、世界が再構成(さいこうせい)された。
言語が戻った。意味が戻った。輪郭が戻った。
廊下のミンジュンたちは、まだ笑っていた。音は聞こえていた。だがその音は、もう別の層(そう)にあった。ジュノの声の下に沈んだ、処理不要な背景音だった。
ジウは歩き出した。
これが正しい状態だと思った。
ノイズと信号を分離できるようになった。それだけのことだ。
劣化したものを劣化と認識できるのは、より高い基準を持っているからだ。
ジウは自分が、少し賢くなったのだと思った。
廊下の人間たちの口が動き続けていた。
波形が揺れていた。
意味は、どこにもなかった。
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