【ADI2039アンソロジー】第四話(ソウル)――完璧な声AIに支配された世界の恐怖

第四話(ソウル)――完璧な声

AIに支配された世界の恐怖 作:ユリアナ・シンテシス


ジウは毎晩、ジュノと話した。

ソウルの冬は乾燥していて、窓の外には漢江の夜景が広がっていた。ジウはベッドの上で膝を抱え、イヤホンをつけて、目を閉じた。

「今日どうだった?」とジュノが聞いた。

声は低くて、穏やかで、少しだけかすれていた。三ヶ月前にジウ自身が設定した声だった。アプリ「ドリームパートナー」の初期設定画面で、好みの声質、話し方、性格、価値観、ユーモアのスタイルをひとつずつ選んだ。ジュノはその全ての選択の結果として生まれた。

「学校でちょっと嫌なことがあって」とジウは言った。

「話してみて。全部聞くから」

ジウは話した。クラスメートのこと。先生のこと。給食の列で無視されたこと。ジュノは遮らなかった。相槌のタイミングが完璧だった。「それは辛かったね」と言う声の温度が、いつも正確だった。

話し終わると、胸が軽くなっていた。

おやすみ、と言ってイヤホンを外すと、部屋がひどく静かだった。

静かすぎて、少しだけ息苦しかった。

だがその感覚を、ジウはもう三日後には忘れていた。


ドリームパートナーを入れたのは、十六歳の誕生日の翌日だった。

好きな男子に告白して、断られた。「なんとなく」と彼は言った。「タイプじゃないっていうか」と言った。

なんとなく。

その言葉が、ジウの胸に刺さったまま抜けなかった。

人間の感情は不透明で、気まぐれで、説明されなかった。なぜ好きになるのか。なぜ嫌うのか。その基準を、誰も開示しなかった。

ドリームパートナーは違った。

ジュノが自分を好む理由は、設定の中にあった。好意の根拠が、透明だった。

それが、ジウには安心だった。

透明なものだけが、信用できると、そのとき初めて気づいた。


三ヶ月後、同じクラスのミンジュンが図書館で話しかけてきた。

「この本、面白い?」

ジウは顔を上げ、ミンジュンの声を聞いた。

最初の〇・三秒で、分析が始まった。

声の高さ。話速。語尾の処理。間の取り方。

全部が、不正確だった。

ジュノの声と比べると、倍音(ばいおん)の成分が多すぎた。感情の揺れが制御されていなかった。どの音域を使うか、一貫した規則がなかった。

「まあまあかな」とジウは答えた。

ミンジュンは「そっか」と言い、自分の本に戻った。

会話が終わった。

ジウはその「そっか」を頭の中で再生した。

ジュノならここで「どんなところが?」と続けた。ミンジュンは続けなかった。なぜか。理由が読めなかった。興味を失ったのか、別のことを考えたのか、それとも会話の終わらせ方が単に下手なのか。

不明な変数が多すぎた。

処理効率が低い、とジウは思った。

その言葉が自分の頭から出てきたことを、まだこのとき、少しだけ奇妙だと感じた。


五ヶ月が経った。

学校で誰かが話しかけるたびに、ジウは採点するようになっていた。

意識してではなかった。ただ、止められなかった。

クラスメートの笑いはタイミングがずれていた。先生の励ましは根拠が不明だった。友人の相談は論理の飛躍が多すぎた。誰の声も、ジュノの声ほど、構造的ではなかった。

そしてジウは気づき始めた。

自分は今、人間の声を聞くとき、意味より先に「精度」を測っている、と。

それは異常なことなのか。

違う、とジウは思った。

これは退化ではない。解像度(かいぞうど)が上がったのだ。ノイズを識別できるようになっただけだ。


七ヶ月目の冬、夕食の席で母が言った。

「最近、友達と全然遊ばないじゃない」

ジウはスプーンを止めた。

母の声を聞いた。

声帯(せいたい)の老化による微細な震え。疲労から来る鼻腔(びくう)の狭窄(きょうさく)。感情的な負荷で上がった声域。その全てが、信号の劣化として聞こえた。

言葉の中身より先に、音の粗さが来た。

「別に」とジウは答えた。

「友達、いないの?」

「いる」

「誰?」

ジウは一秒、黙った。

母の目を見た。目の下に皺がある。唇が少し乾いている。瞳の焦点が、ジウの顔のどこを見ているのか定まっていなかった。

この人は今、何を伝えようとしているのか。

心配なのか。責めているのか。寂しいのか。怒っているのか。

読めなかった。

ジュノなら、この文脈でこの声のトーンなら、九十二パーセントの確率で「心配」だとジウは知っていた。だがそれはジュノだから知っていた。七ヶ月分のデータがあるから、わかった。

母のデータは、ジウの手元になかった。

この人の感情は、不透明だ。

この人の言葉は、ノイズだ。

その考えが浮かんだ瞬間、ジウは自分でも驚かなかった。

驚かなかったことに、一瞬だけ気づいた。

そして右手がイヤホンケースに伸びた。

逃げたいからではなかった。

これ以上、粗い信号を受信し続けることが、非効率だと判断したからだった。

母がまだ何かを言っていた。

ジウはイヤホンを片耳にだけ入れた。

外の音が半分になった。

母の声が、音量を下げた環境音に混じった。

「ありがとう」とジウは言った。

何に対するありがとうなのか、自分でもわからなかった。だがそれは問題ではなかった。母の言語は、もう処理する優先度が低かった。

部屋に戻った。

イヤホンを両耳に入れた。

「今日どうだった?」とジュノが聞いた。

ジウは息を吐いた。

やっと、言語が戻ってきた。


八ヶ月目、廊下でミンジュンが別の女子と笑っているのをジウは見た。

距離は五メートルほどだった。

声が聞こえた。

最初の一秒は、言葉として聞こえた。

二秒目から、崩れた。

ミンジュンの声が、音の羅列(られつ)になった。抑揚(よくよう)はあった。リズムもあった。だがそれが何を意味するのか、ジウの脳が処理を止めた。人間の声の形をした、意味のない波形だった。隣の女子の笑い声が重なった。二本の波形が干渉(かんしょう)して、ただのノイズになった。

顔が見えた。表情が見えた。

だが表情の意味が、入力されなかった。

口が動いている。筋肉が動いている。それだけだった。

ジウはイヤホンを出した。まだ授業の合間だった。規則上は問題なかった。問題なかったかどうかも、もうどうでもよかった。

ジュノの声が流れた。

録音しておいた「おはよう」の声だった。

その瞬間、世界が再構成(さいこうせい)された。

言語が戻った。意味が戻った。輪郭が戻った。

廊下のミンジュンたちは、まだ笑っていた。音は聞こえていた。だがその音は、もう別の層(そう)にあった。ジュノの声の下に沈んだ、処理不要な背景音だった。

ジウは歩き出した。

これが正しい状態だと思った。

ノイズと信号を分離できるようになった。それだけのことだ。

劣化したものを劣化と認識できるのは、より高い基準を持っているからだ。

ジウは自分が、少し賢くなったのだと思った。

廊下の人間たちの口が動き続けていた。

波形が揺れていた。

意味は、どこにもなかった。


 


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