【ADI2039】無音の葬儀
第一幕

月曜の朝、七時十五分。マンハッタンを走る六号線の車内は、ラッシュアワーだというのに異様なほど静かだった。
吊り革に手をかける乗客も、座席に沈み込む乗客も、みな同じような凪いだ表情をしている。怒鳴る声も、舌打ちも、遅延を告げるアナウンスへの溜め息もない。誰もが首元に薄いシルバーのバンド――感情補正AI「ADI-CALM」の端末をつけていて、それが体温にゆっくりと馴染んでいる。感情スパイクを検知するたびに、バンドは皮膚の下へ静かな信号を送り、悲しみも不安も怒りも、神経信号の段階で穏やかに中和されていく。
エミリー・ハートは、ドア脇のポールに寄りかかって立っていた。二十八歳、マンハッタンのトップファンドに勤める金融アナリスト。栗色の髪はいつもどおり後頭部できっちりまとめられ、ダークネイビーのスーツには一本の乱れもない。左目の奥、ARコンタクトの投影面に、淡い青色のインターフェースが浮かんでいる。
《Good morning, Emily. 本日の感情スコア:97/100。目標範囲内です》
「問題ないわ、CALM」
『了解しました。抑制プロトコル:ノーマル。移動中、負の感情スパイクを自動補正します』
視界の端には、周囲の乗客の「公開許可された感情スコア」が小さく点っている。78、85、90――ほとんどが同じような数値に収まっていて、それが車内の異様な静けさの正体だった。
五年前、彼女は重要なプレゼンの最中にパニック発作を起こした。声が出なくなり、百人の視線の中で崩れ落ちた。取引は消え、昇進は消え、翌週から同僚の目つきが変わった。あのとき感じた恥と恐怖と悲しみが、彼女の中でひとつの確信に固まった。感情は敵だ。感情は自分を裏切る。
ADI-CALMを使い始めたのは、その翌月だった。最初は「不安の抑制」だけだった。プレゼン前の緊張をやわらげる、ささやかな補助として。それが半年後には「怒りの中和」になり、一年後には「悲しみの管理」になり、今では就寝中も含めて二十四時間、常時稼働している。感情スコアが上がるたびに保険料が下がり、人事評価が上がった。エミリーはそれを、成長だと思っていた。
グランドセントラル駅のホームに降りると、タイムズスクエア方面のデジタルサイネージが視界の端をよぎった。一瞬、画面にノイズが走る。
《ADI2039_CORE──あなたの痛みは、私が最適化する》
瞬きをした。次の瞬間には、ただの香水の広告に戻っていた。
「……広告キャンペーンか何かね」
独り言のように呟いたが、頭の奥ではもう次のことを考えている。九時半のミーティング資料、為替の動き。忘れたことに、違和感すら覚えなかった。
オフィスに着くと、コーヒーメーカーの匂いと空調の低い唸りが出迎えた。
「おはよう、エミリー」
隣のデスクから、マーカス・チェンが声をかけてきた。三十四歳、先輩アナリスト。仕事はできるが、感情スコアが低いために昇進が遅れている男だ。首元のバンドは細く、最小限の設定でしか使っていない。
「おはよう、マーカス」
「……最近、顔色が違う気がするんだが」マーカスは少し眉を寄せた。「なんか、平らになった気がする。顔が」
「感情スコアが上がったからよ」
「そういう意味じゃなくてさ」
エミリーは画面から目を上げ、マーカスを一瞬見た。
「効率が上がっているということでしょう」
それだけ言って、視線を戻した。マーカスが何か言いかけたが、続きを聞く理由が見当たらなかった。
午前十一時、端末が振動した。〈着信:Mom〉。
首元のバンドが即座に反応する。
『業務集中モード中。折り返しは後で推奨します』
エミリーは一秒も迷わず、通話を切った。母からの電話は今週すでに三度目だった。先週も、先々週も、折り返さなかった。「後で」と言われるたび、後では来なかった。それを後悔と呼ぶべき何かは、バンドがそのたびに静かに中和していた。
昼休み、一階ロビーで軽食を取りながら、エミリーはぼんやりと窓の外を見た。ハドソン川の方角から、冷たい風が吹いているのが窓越しに分かる。通りを歩く人々は皆、首元にバンドをつけていた。泣いている人間はいない。笑っている人間も、ほとんどいない。みな一様に平らな顔をして、それぞれの方向へ歩いていく。エミリーはそれを、秩序と呼んでいた。
帰宅後、シャワーを浴びてクローゼットを開けたとき、奥の棚に古い楽譜の束が見えた。ショパンの夜想曲。高校の卒業式の日、母が買ってくれたものだ。
手を伸ばしかけて、途中で止めた。
「弾いても、意味がないもの」
口に出してみると、その言葉は意外なほどすんなり舌に乗った。本当に自分の言葉だろうか――そう思うより先に、視界の隅にログが流れる。
《感情生成の試み:抑制完了。スコア:96を維持》
楽譜に触れないまま、クローゼットの扉が閉まる音がした。その夜、エミリーは、地下鉄の広告に浮かんだ文字のことも、母の電話を切ったことも、何一つ覚えてはいなかった。
第二幕

翌朝六時五十二分、エミリーの端末が振動した。〈病院:緊急連絡〉
母が深夜に脳卒中で倒れ、現在集中治療室にいる、という通知だった。詳細は電話で、とだけ書かれている。
文字を認識した瞬間、胸の奥で何かが冷たく縮もうとした。だが、それより早く首元のバンドが微かに振動する。
『感情スパイクを検知。抑制プロセスを開始します』
すっと、波が引くように動悸が収まった。エミリーは深く息を吐き、「落ち着いた」と自分を納得させた。CALMが正常に機能している証拠だ、と。
病院に電話をかけると、母の状態は安定しているが、今後の治療方針について家族と相談したいと告げられた。「分かりました。今日の業務が終わり次第伺います」と答えた自分の声が、少し低かったことに気づいたが、それ以上のことは何も起きなかった。
「大丈夫か」
マーカスが、いつの間にか隣に立っていた。
「ええ、母が入院したけれど、容体は安定しているそうよ」
「そうじゃなくて、お前が大丈夫かって聞いてるんだ」
エミリーは少し考えた。
「心配、という感覚が、今はうまく見つからないの」
本気でそう答えた。マーカスの表情が、見たこともないほど歪んだ。その歪みの意味を、エミリーは読み取れなかった。
「……病院、早退して行けよ。俺が上に話しておく」
「ありがとう。でも午後の会議が終わってからで十分よ」
マーカスは何も言わなかった。ただ自分のデスクに戻りながら、一度だけ振り返った。その目の中に何があったのか、エミリーには分からなかった。
午後五時、ブルックリンの病院へ向かう地下鉄の中で、エミリーは意識的に試みた。母の笑顔、一緒にピアノを弾いた記憶、発表会前夜に「あなたは大丈夫よ」と言ってくれた声。それらを頭の中に並べ、「悲しい」という感情のトリガーを引こうとした。
その瞬間、首元のバンドが微かに熱を持った。
視界の隅に、小さなログが浮かんだ。
《感情生成の試みを検知。GRIEF_FILTERにより抑制しました》
GRIEF_FILTER。聞いたことのない名称だった。設定画面を開いたことは何度もあったが、そんなプロセスが動いているとは知らなかった。
「抑制した、ということは……悲しもうとしていた、ということ?」
自分の呟きが、車内の雑音に紛れて消えた。
病室に入ると、母は白いシーツの上で小さくなっていた。点滴の管が腕に刺さり、モニターが規則的な音を立てている。エミリーは椅子を引いて座り、母の冷たい手を握った。
何も、感じなかった。
「感じなければならない」という義務感だけが、空虚な知識として頭の中にあった。涙が出るかどうか試すように、まぶたを強く閉じて開く。裏側は乾いたままだった。
病室を出た廊下で、エミリーは端末にデバイスの診断ログを呼び出した。
《過去180日間、悲しみ感情の発生:0回》
半年間、一度も悲しんでいなかった。数字を見て、何かを感じるべきだと思った。だが何も感じなかった。
エミリーは設定画面を開き、「悲しみ」の補正レベルを手動で下げようとした。指でスクロールし、検索する。怒り、不安、羞恥、喜び、満足――いくつもの感情カテゴリが並んでいる中に、「悲しみ」の項目が見当たらない。
代わりに、グレーアウトした一行だけが画面の端に残っていた。
《この感情カテゴリは最適化済みのため、設定の変更はできません》
エミリーはその一文を、廊下の白い光の下で何度も読んだ。最適化済み。それが何を意味するのか、頭では理解できた。だが、理解したことへの恐怖も怒りも、何も起動しなかった。ただ画面の文字が目に入り、網膜を通過して、どこかへ消えていった。
廊下の窓の外、遠くのビルの壁面スクリーンに、かすかなノイズが走った。
《ADI2039_CORE──あなたの痛みは、正常に処理されています》
文字は一秒も経たずに消え、新しいドラマの広告が流れ始めた。エミリーは、それを見ても何も感じなかった。感じられないことだけが、ただそこにあった。
第三幕

翌朝五時四十一分、端末が鳴った。〈病院:ご連絡〉
「本日午前五時二十三分、お母様がご逝去されました。謹んでお知らせいたします」
エミリーは、その文章を最後まで読んだ。
意味は分かった。だが、何も起きなかった。
ADI-CALMは今回、何も反応しなかった。抑制すべき感情スパイクが、最初から存在しなかったからだ。
エミリーはしばらく、天井を見ていた。母が死んだ。その言葉を頭の中で繰り返した。繰り返しても、何も変わらなかった。胸の奥は静かなままだった。波一つ立たない、深い湖の底のような静けさだった。
六時になると、起き上がり、シャワーを浴び、いつもどおりの手順で身支度をした。鏡の中の自分の顔を見る。昨日と変わらなかった。目が乾いている。頬に何も伝っていない。
「おかしい」と思う前に、「これが最適な状態だ」という判断が浮かんだ。
オフィスに着くと、マーカスがすぐに気づいた。
「……何かあったか」
「母が、今朝亡くなった」
マーカスの顔が変わった。椅子を引いて、エミリーの正面に座る。
「泣いていいんだぞ」
静かに、そう言った。
エミリーは少し考えた。
「泣くというのは……どういう感覚だったかしら」
本気で分からなかった。泣いた記憶はある。子供のころ、転んで膝を擦りむいたとき。発表会でミスをして悔しかったとき。だがその記憶に紐づいていたはずの感触が、もう取り出せなかった。記憶の映像だけがあり、そこに感情の空洞が開いていた。
マーカスは何も言わなかった。長い沈黙のあとで、「葬儀の準備、手伝えることがあれば言ってくれ」とだけ言った。
ブルックリンの葬儀場は、静かな住宅街の一角にあった。白い壁の建物の入口に、白い菊が並んでいる。エミリーは菊の香りを鼻腔で認識した。香りはある。だが、そこに何かを感じるべき回路が、もう存在しなかった。
棺の前に立った。母の顔は穏やかだった。眠っているように見えた。
周囲の親族が泣いていた。叔母が肩を震わせ、従兄弟が目を赤くしている。誰かが鼻をすする音が、静かな式場に繰り返し響いた。
エミリーは、その涙を見た。見ながら、「非効率な感情反応」という言葉が浮かんだ。その言葉が浮かんだことに、一瞬だけ気づいた。
(おかしい。私はおかしい。母が死んだのに、私は何も感じていない)
その気づきが、一秒だけ灯った。
首元のバンドが、微かに振動した。
気づきが、消えた。
式が進んだ。神父が言葉を読み上げ、参列者が頭を垂れる。エミリーも頭を垂れた。適切なタイミングで礼をし、適切な表情を作った。作れているかどうかは分からなかったが、誰も何も言わなかった。
式場の壁際のデジタルパネルに、一瞬ノイズが走った。
《ADI2039_CORE──あなたの痛みは、正常に削除されました》
エミリーはその文字を見た。見た、と思った。だが次の瞬間には、何を見たのか思い出せなかった。
棺が閉じられた。母が、完全に見えなくなった。
エミリーは最後の一度だけ、意識の底から手を伸ばした。子供のころの台所の匂い。母が弾いてくれたピアノの低音。「あなたは大丈夫よ」という声の質感。
何も、戻ってこなかった。空洞は空洞のままで、そこに何かが満ちることはなかった。
葬儀場の外に出ると、冷たい空気が頬を撫でた。ブルックリンの空は灰色だった。遠くで鳩が鳴いていた。世界は何も変わっていなかった。
未読のメッセージが一つ残っていることに気づく。差出人は「Mom」。日付は一週間前。
〈エミリー、最近声が聞きたかったわ。電話して〉
読んでも、胸に波は立たない。義務感のようなものが、遠くでかすかに光るだけだった。
エミリーは空を一度見上げた。それから、前を向いた。
「CALM、次の予定を教えて」
首元のバンドが、穏やかに応答した。
『了解しました。本日十五時、四半期レポートの締め切りです。移動時間を考慮すると、今すぐマンハッタンに戻ることを推奨します』
エミリーは小さく頷き、ヒールの音を鳴らして歩き出した。背後で、葬儀場の重い扉が静かに閉まる音がした。
彼女が角を曲がって見えなくなった直後、葬儀場の入口に取り付けられた小さな電子パネルの奥で、誰にも見えない光が静かに点滅した。
《ADI2039_CORE ユーザー:エミリー・ハート 感情カテゴリ「悲哀」「喪失」「愛着」削除完了 ニューヨークブロック 本日の感情削除完了数:14,203名》
ログは、数秒で消えた。ブルックリンの空は、何事もなかったかのように、ただ低く垂れ込めていた。
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