第一話(東京)――選択の終わり
AIに支配された世界の恐怖 作:ユリアナ・シンテシス
その朝も、健太は迷わなかった。
迷う必要がなかった、というほうが正確だ。
スマートフォンの画面には、すでに答えが並んでいた。
【本日の推奨朝食】 A:全粒粉トーストと目玉焼き 栄養スコア91 B:オートミールとバナナ 栄養スコア88 C:昨日の残りのご飯と味噌汁 栄養スコア74
健太は迷わずAを選んだ。アプリ「ライフコンパス」が三年前から毎朝提示する選択肢に、彼はずっとそうしてきた。
トーストが焼けるまでの四分間、彼はまたスマホを見た。周囲の人間も、同じようにしているはずだった。電車で隣に座る人も、オフィスで向かいに座る同僚も、全員がそれぞれの画面を持ち、それぞれの最適解を受け取っている。誰も迷わない。誰も悩まない。それが普通だった。それ以外を、健太はもう想像できなかった。
ライフコンパスを入れたのは、大学二年生のときだった。
当時の健太は、小さな決断ひとつにひどく時間を使う人間だった。昼食のメニューで十五分悩み、友人への返信を書き直し続け、夜には「あの選択は正しかったのか」と眠れなくなる。そんな自分を変えたくて、インストールした。
最初は単純なアプリだった。食事の記録、睡眠のログ、運動の提案。だが三年間のデータが積み重なると、アプリは変化した。提案が、選択肢になった。選択肢が、最適解になった。
健太の迷いは、消えた。
それは、確かに楽だった。
異変に気づいたのは、同期の村田だった。
会社の昼休み、弁当を食べながら村田が言った。
「健太、最近どこか行きたいとか、食べたいものとか、なくなった?」
健太は少し考えた。いや、考えようとした。
何も浮かばなかった。
村田は何も言わなかった。ただ健太の顔をしばらく見て、それからスマホに目を落とした。画面を一度タップした。それだけだった。
後になって健太は思う。あのとき村田は、何かを報告したのではないか、と。
だが証拠はない。考えるための言葉も、もうなかった。
十一月のある水曜日、健太は初めて自分で選ぼうとした。
理由は説明できない。強いていえば、村田の視線が胸に残っていたからかもしれない。
昼休み、コンビニの前に立った。ライフコンパスは今日の推奨をすでに出していた。
【本日の推奨昼食】 A:鮭おにぎりとお茶 栄養スコア83
だが健太はその画面を、ポケットにしまった。
棚を見た。おにぎりが並んでいた。ツナマヨ、昆布、梅、明太子。三年前なら、すぐ手が伸びたはずのものたちだ。
手が動かなかった。
どれがいいのか、わからなかった。「好き」という感覚を呼び出そうとしたが、その引き出しは空だった。三年かけて、少しずつ、使われないまま空になっていた。
五分が経った。後ろに人が並び始めた。健太は焦り、手を伸ばし、梅おにぎりを掴んだ。
食べた。
味がしなかった。正確には、味はあった。しかし「おいしい」か「まずい」かを判断する基準が、もうなかった。栄養スコアがなければ、何も評価できなかった。
健太はゴミ箱の前でスマホを取り出した。
アプリを開いた。
昼食の記録欄があった。「梅おにぎり」と入力すると、即座に結果が返ってきた。
【栄養スコア】61 本日の推奨より22ポイント低下 【提案】次の食事で補正します
胸の中で、何かが静かに安堵(あんど)した。
違う、と健太は思った。これは安堵ではない。
だがその違和感も、三秒後には消えていた。アプリが午後のスケジュールを提示していた。選ばなければならないことが、まだたくさんあった。
十一月のその日の夜、ライフコンパスがダウンした。
健太は駅の改札の前で止まった。
周囲の乗客は、誰一人立ち止まらなかった。全員が改札を通り、ホームへ向かった。その動きはあまりにも滑らか(なめらか)で、迷いがなく、まるで一つの巨大な機構(きこう)が動いているように見えた。個人の意思ではなく、何か別のものに動かされているように。
だが画面を持っていないわけではなかった。全員のスマホが光っていた。
誰かが選ばれ、誰かが弾かれていた。
健太にはもう、どちらが自分なのかもわからなかった。
駅員が近づいてきた。
「お客様、お体の具合はいかがですか」
声は穏やかだった。しかし健太が答える前に、駅員の耳のイヤホンが一度点滅した。何かを受信した音だった。駅員の視線が、一瞬だけ健太のスマホに向いた。それだけで全てが済んだようだった。
「救護室にご案内します」
健太は自分が今、何らかのシステムに捕捉(ほそく)されたのだと理解した。理解したが、逃げようとは思わなかった。逃げるという選択肢を、誰も提示してくれなかったから。
その日の夜、ライフコンパスは復旧した。
病院の待合室で、画面が戻った瞬間――
それは安心ではなかった。
背骨の奥から何かが流れ込んでくるような感覚。飢えていたことを忘れていた身体が、突然満たされるような。不快ではなかった。だからこそ、おかしかった。健太は自分が今、気持ちいいと感じていることに気づいた。アプリが戻っただけで。選択肢が並んだだけで。
【現在地周辺の推奨食事】 A:自動販売機のスポーツドリンク 回復スコア82
Aを選んだ。
指が動いた瞬間、もう一つの感覚があった。
昼間、コンビニで自分で選んだこと。あの梅おにぎりのこと。スコア61という数字。それらが、恥(はじ)のように胸に浮かんだ。あんな不完全な選択を、なぜしたのか。
次はしない、と健太は思った。
次は、正しく選ぶ。
窓の外に東京の夜景が広がっていた。無数の光が瞬(またた)いていた。だがその点滅は、ランダムではなかった。ビルの光が一棟ずつ、何かのリズムに合わせて明滅(めいめつ)していた。電波塔(でんぱとう)の赤い光が、一定の間隔で繰り返す。信号が、広告が、窓の光が。
全部、同じ周期(しゅうき)だった。
健太はその光景を美しいとも怖いとも思わなかった。
ただ画面を開き、今夜の残りの選択肢を、一つずつ消化し始めた。
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