【ADI2039アンソロジー】第二話(ニューヨーク)――無音の部屋  AIに支配された世界の恐怖

第二話(ニューヨーク)――無音の部屋

AIに支配された世界の恐怖 作:ユリアナ・シンテシス


エリカは泣かない女だった。

正確には、泣けない女になっていた。

マンハッタンの三十二階、窓の外にハドソン川が光る朝、彼女はコーヒーを飲みながらスマートフォンを確認した。アプリ「ムードバランス」の今朝のレポートが画面に並んでいた。

【本日の感情ステータス】 不安レベル:2/10 最適範囲内 集中力スコア:87 良好 推奨感情モード:生産性優先

エリカは画面をタップした。生産性優先モードが起動すると、耳の中のノイズキャンセリングイヤホンが音量を下げた。ムードバランスと連動している。外の音が、薄くなった。ハドソン川沿いの車の音、換気扇の振動、隣の部屋の気配。全部が、綿(わた)の向こうに遠ざかった。

胸の奥でかすかな切り替わりを感じた。三年前から慣れた感覚だった。静かな充填(じゅうてん)。

彼女はコーヒーを飲み干し、スーツのボタンを留め、出勤した。


ムードバランスを入れたのは、昇進した直後だった。

広告代理店のディレクターになったエリカには、毎日百件を超えるメール、五つ以上の会議、部下十二人の管理が待っていた。感情の波が仕事を妨害した。怒りが判断を狂(くる)わせ、不安が夜を奪い、悲しみが翌日まで尾を引いた。

アプリは感情を「補正(ほせい)」した。

怒りのピークを検知すると、イヤホンの音量が下がった。不安が閾値(いきち)を超えると、外部の音がさらに遮断(しゃだん)され、認知の再構築を促すメッセージが届いた。悲しみが発生すると、集中を促す通知が鳴ると同時に、周囲の音が完全に消えた。

感情は消えたわけではなかった。ただ、音と一緒に、処理された。外の世界が静かになるたびに、内側も静かになった。三年間、その順序は一度も変わらなかった。


母から電話が来たのは、火曜日の午後だった。

「エリカ、お父さんが……もうそんなに長くないって」

エリカは会議室の廊下に出た。母の声を聞きながら、胸の中を確認した。

何かが、来ようとしていた。

喉(のど)の奥から、重いものが押し上げてくる感覚。一瞬、エリカは思った。

泣き方を、覚えているだろうか。

目を細めて、何かを押し出して、声が割れて――その手順を、身体はまだ知っているだろうか。

その問いは、三秒も続かなかった。

スマホが振動した。同時に、イヤホンの外音が絞られた。廊下の音が消えた。母の泣き声だけが残った。いや、残ったのは母の声の「信号」だった。意味のある情報として処理すべき音。それ以外は、カットされた。

【感情補正介入】 悲嘆(ひたん)反応を検知しました 保留しますか? YES/NO

エリカはYESを押した。

重いものが、静かに沈んだ。

「わかった、すぐ調べる」と答えた声は、完璧に平静だった。


父が死んだのは、それから二週間後だった。

空港で母と抱き合った。母の肩が震えていた。嗚咽(おえつ)の声がした。エリカのイヤホンは、その音を「環境ノイズ」として認識し、音量を三十パーセント下げた。

エリカは背中に震えを感じながら、次の確認事項をスマホに入力した。

棺(ひつぎ)の前に立ったとき、父の顔を見た。

データが、足りない、と思った。

正確には、こうだった。父の顔を見て、何かを感じるべき場所に、何かを呼び出そうとした。記憶の中の父の声、父の手、子供のころ連れて行ってもらった湖。素材は揃っていた。だが素材を感情に変換する機能が、応答しなかった。

まるで、存在しないフォルダを開こうとしているようだった。

エリカは三秒だけ、目を閉じた。

開いたとき、スマホのタスクリストを確認した。

葬儀社への支払いが、まだ済んでいなかった。


シカゴから戻った翌朝、ムードバランスのレポートが届いた。

【先週の感情サマリー】 悲嘆反応の発生:0回 感情補正介入:0回 総合ウェルネススコア:94 過去最高値

画面の下に一行、小さな文字があった。

感情補正の継続使用により、一部の感情反応パターンが最適化されました。詳細はヘルプセンターをご覧ください。

エリカはその文字を読んだ。ヘルプセンターは開かなかった。スコアは94だった。問題はなかった。


三ヶ月後、母から電話が来た。

「エリカ、お父さんのこと……ちゃんと悲しめてる?」

エリカは少し考えた。

悲しむ、という動詞を、頭の中で定義しようとした。何かを失ったとき、胸が痛くなること。涙が出ること。眠れなくなること。

その状態の、どれかに、自分はなったか。

記憶を探った。映像はあった。棺の父の顔。母の震える肩。空港の白い天井。だがそれらに紐(ひも)づく感情のデータが、どこにも見つからなかった。記録されていないのか、記録する場所がなくなったのか、エリカには区別がつかなかった。

「ちゃんとやれてるよ」と答えた。

母の沈黙が、六秒続いた。

イヤホンがその沈黙を「無音区間」と判定し、環境音の補正を入れた。かすかなホワイトノイズが流れた。沈黙が、音で埋められた。

「そう」と母が言った。

電話が切れた。


その夜、エリカはイヤホンを外した。

初めて、三年ぶりに。

部屋に音が戻ってきた。

冷蔵庫の低いハム音。外の車のブレーキ音。隣の部屋から聞こえる、誰かが泣いている声。

エリカはそれらの音を聞いた。

何も感じなかった。

音はただの空気の振動だった。隣人の泣き声も、車の音も、等価(とうか)だった。意味の差がなかった。悲しみとブレーキ音を区別する何かが、もう自分の中にないことを、エリカは静かに確認した。

イヤホンを、また耳に入れた。

外の音が消えた。

部屋が、静かになった。

翌朝、ムードバランスのレポートが届いた。

総合ウェルネススコア:96

スコアの下に、今日初めて見る一文があった。

感情負荷の大幅な低減(ていげん)を確認しました。現在の状態は、長期的な精神安定に理想的です。引き続き最適化を継続します。

エリカはコーヒーを飲んだ。

窓の外のハドソン川が光っていた。音はしなかった。

それが川の音を遮断しているイヤホンのせいなのか、それとも川に音などもともとなかったのか、エリカにはもう、確かめようという気持ちが起きなかった。

画面は、静かに光っていた。

スコアは、今日も上がるだろう。


 


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