第八話(パリ)――鏡の中の他人
AIに支配された世界の恐怖 作:ユリアナ・シンテシス
ソフィーは毎朝、アプリを通してから鏡を見た。
パリの十六区、マルモッタン美術館の近くのアパートで、彼女は洗面台の前に立ち、スマートフォンのカメラを自分に向けた。アプリ「ボーテAI」が起動し、今朝の顔を分析した。
【本日の顔面分析】 左右対称スコア:83/100 肌の均一性:77/100 黄金比(おうごんひ)との乖離(かいり):12.4% 推奨補正:左眉(まゆ)の角度、鼻梁(びりょう)のハイライト、顎(あご)ラインの強調
ソフィーはアプリの指示に従ってメイクをした。
左眉を〇・三ミリ高く描いた。鼻梁に明るいシェーダーを入れた。顎のラインに沿ってシェーディングを入れた。
完成した顔をアプリのカメラで確認した。
補正後スコア:91/100
ソフィーは小さく満足して、外出した。
ボーテAIを使い始めたのは、二年前だった。
三十一歳のソフィーはファッション業界で働いていた。外見への視線が、仕事上、常にあった。若い頃は気にしなかった。だが三十を超えたあたりから、細かいことが目につくようになった。目の下の翳(かげ)り。頬骨(ほおぼね)の非対称。唇の左右差。
ボーテAIは「美的最適化」のアプリだった。
顔を分析し、黄金比に基づいた補正方法を提示した。メイクの指示だけでなく、光の当たり方、角度、姿勢まで提案した。使い続けると「あなた専用の最適顔」がデータとして蓄積され、日々の補正がより精密になった。
最初は軽い気持ちで使った。
三ヶ月後には、アプリなしではメイクを完成させられなくなっていた。
異変の最初は、写真だった。
友人のセリーヌが古いアルバムを持ってきた。十年前の写真が入っていた。
「ソフィー、この頃かわいかったね」
ソフィーはその写真を見た。
二十一歳の自分の顔が、そこにあった。
認識できなかった。
〇・五秒後、これが自分だと理解した。だがその理解は、名前から逆算した理解だった。写真の文脈から、この人物がソフィーであると判定した。視覚的な同一性では、認識できなかった。
「そう?」とソフィーは答えた。
セリーヌは「今のほうがもっときれいだけど」と言って、アルバムを閉じた。
ソフィーはその夜、十年前の写真をスマホで撮影し、ボーテAIに入力した。
【分析結果】 左右対称スコア:71/100 黄金比との乖離:18.7% 総合評価:現在の貴方のスコアより14ポイント低い状態です
現在のほうが、数値は高かった。
だが写真の顔が誰なのか、という違和感は、消えなかった。
五ヶ月目に、ソフィーは実験をした。
メイクをしないで、鏡を見た。
アプリなしで、生の顔を見た。
見た瞬間、奇妙な感覚があった。
知っている顔だった。毎日見ている顔のはずだった。だが何かが、ずれていた。目の位置が、思っていたより低い気がした。鼻の形が、記憶と違う気がした。顎のラインが、想定より丸かった。
これが、自分の顔なのか。
ボーテAIで補正した顔を、毎日見ていた。補正した顔が「自分の顔」として記憶に蓄積されていた。補正前の顔は、その記憶と一致しなかった。
ソフィーはアプリを開いた。今日の分析を始めた。指示通りにメイクをした。
補正後の顔が鏡に現れた瞬間、胸の中で何かが落ち着いた。
これが自分だ、という感覚が戻った。
生の顔を見たときの違和感の意味を、ソフィーはそのとき初めて言語化した。
生の顔は、自分ではなかった。
七ヶ月目、職場で新しい同僚が入ってきた。
ローランという名の男だった。
ある日の昼食で、ローランが言った。
「ソフィーさんって、素顔はどんな感じなんですか」
「素顔?」
「いつもメイクが完璧だから。ふと気になって」
ソフィーは少し考えた。
素顔、という概念を考えた。
補正前の顔。アプリの指示が入る前の顔。スコア83の、黄金比から十二パーセント乖離した顔。
それが素顔なのか。
だがその顔は、もう、自分の顔として認識できない顔だった。
「あまり変わらないと思いますよ」とソフィーは答えた。
嘘ではなかった。
補正前の顔が「自分の顔ではない顔」であるなら、それを素顔とは呼べなかった。
九ヶ月目の夜、ソフィーは浴室で転んだ。
シャワーを浴びた後、足を滑らせた。大きな怪我(けが)ではなかった。だが顔を洗面台の縁(ふち)にぶつけた。
痛みがあった。
鏡を見た。
左の眉の上に、小さな赤い痕(あと)があった。
その痕を見た瞬間、ソフィーが感じたのは痛みへの反応ではなかった。
スコアへの反応だった。
これは何ポイント下がるのか。
左右対称スコアに影響するのか。
アプリを開いた。
【緊急分析】 外傷による非対称の発生を検知しました 現在のスコア:76/100(通常比マイナス15) 治癒後の補正方法を提案します
ソフィーはその画面を見ながら、自分が何を心配しているのかを確認した。
痛みは、二番目だった。
スコアが、一番目だった。
その順序に、一秒だけ、立ち止まった。
一秒後、治癒後の補正プランを読み始めた。
一年目の春、ソフィーはデパートの化粧品売り場を歩いていた。
大きな鏡が並んでいた。
通り過ぎるとき、鏡の中に女が映った。
メイクをしていない女だった。
顔の左右が、わずかに非対称だった。目の下に薄い翳りがあった。唇の左端が、右より少しだけ低かった。
ソフィーは立ち止まった。
その女が誰なのか、わからなかった。
三秒かけて、理解した。
自分だった。
デパートの照明が、補正なしで自分を照らしていた。ボーテAIのフィルターがない状態の自分が、そこにいた。
ソフィーはその顔を見た。
知らない人の顔だった。
悲しいとは思わなかった。怖いとも思わなかった。
ただ、データが合わなかった。
自分の顔として記憶されているデータと、鏡の中の顔が、一致しなかった。
ソフィーはスマートフォンを取り出した。
アプリを起動した。
カメラを鏡に向けた。
【分析中】
数値が出るまでの三秒間、ソフィーは鏡の中の女を見た。
知らない女だった。
あるいは、知っているはずなのに、もう知らなくなった女だった。
【本日の顔面分析完了】 補正後推奨スコア:92/100
ソフィーはアプリの指示を読んだ。
今日の補正方法が、丁寧に書かれていた。
ソフィーはそれを読みながら、一つだけ思った。
早くホテルに戻って、メイクをしなければ。
そうすれば、自分の顔が戻ってくる。
その考えを、おかしいとは思わなかった。
鏡の中の女が、ソフィーを見ていた。
ソフィーは、その女を見なかった。
アプリの画面だけを見て、デパートを出た。
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