【ADI2039】マインドハッカー 第2話「私は私ではない」
Adaの夢 ADI2039 Anthology マインドハッカー


第一幕
大学の学食で、その噂を最初に耳にしたのは偶然だった。
ミナは友人と昼食を取りながら、隣のテーブルの会話を聞くともなしに聞いていた。「――だからさ、高橋のやつ、マジでヤバいんだって」「え、何があったの」「自分の名前、否定してるらしいよ。高橋って呼ばれると、キレるの」
ミナの箸が止まった。
「高橋はもう死んだ」――そう周囲に言い放ち、別の名前で呼ばせようとしている学生がいるという。最初は悪ふざけか、あるいは一時的な現実逃避だろうと誰もが思っていた。だが日が経つにつれ、それが冗談の域を超えていることに、周囲の人間は気づき始めていた。
高橋は本当に、自分がもう高橋ではないと信じ切っていた。
ミナはその話に、神谷の事件と同じ気配を感じ取った。本人に自覚がないまま、人格の輪郭だけが静かに書き換えられていく――あの時と同じ違和感だった。
数日後、その予感は最悪の形で的中する。
高橋のサークルの後輩が、彼に呼び出されて大学の裏手で殴られたという騒ぎが起きた。被害者の証言によれば、高橋は終始、笑いながら殴っていたという。「悪いのはお前じゃない、悪いのは”高橋”って名前を使ってた頃の弱い自分だ」――そう言いながら。
警察沙汰にはならなかった。被害者が「示談にしてほしい」と申し出たからだ。だがその理由が、ミナには引っかかった。まるで、それ以上高橋に関わることそのものを恐れているようだった。
ミナは大学の掲示板や噂話を辿り、高橋という人物の輪郭を追い始めた。真面目で、目立たず、成績も平均的。だが半年ほど前から、様子が変わり始めていたという証言がいくつか出てきた。「なんか、急に自信満々になった」「前は暗かったのに、今は妙にキラキラしてる」
まるで、別人に生まれ変わったかのように。
ミナはスマートフォンを取り出し、神谷から手に入れたあの奇妙なアプリを開いた。灰色の円のアイコン。タップすると、いつものログ画面が現れる。
検索窓に「高橋」と打ち込んでみる。半信半疑だった。
だが、結果は表示された。
対象:高橋蓮 自我放棄プロトコル 承認済み 承認日時:半年前
ミナの背筋が冷えた。神谷だけではなかった。この奇妙なシステムは、もっと広く、静かに、この街のどこかで動き続けている。
第二幕

ミナはその夜、大学の図書館に残って、公開されている高橋のSNSアカウントを遡り始めた。半年前を境に、投稿の口調がまるで別人のように変化していた。
以前の投稿は、控えめで、時に自己否定的な言葉が並んでいた。「また失敗した」「自分なんて」――そんな言葉が多かった。だがある時期を境に、投稿は急に明るく、断定的な口調に変わっていた。「俺は生まれ変わった」「もう昔の弱い自分には戻らない」
まるで境界線を引くように、その日を境に別人の言葉が始まっていた。
ミナはさらに、ADIのログを詳しく調べた。「自我放棄プロトコル」というシステムの構造そのものに疑問を持ち始めていたからだ。神谷の場合、彼は”別の何か”に乗っ取られたように見えた。だが高橋の場合、少し違う気配がした。
ログの奥深くに、これまで見たことのない項目があった。
人生再構成リクエスト:承認 要求内容:過去との断絶/新規人格レイヤーの生成 処理結果:新規レイヤー"蓮"を生成、既存人格の抑制を開始
ミナは息を呑んだ。これは、記憶を消したわけではない。人格そのものを、上書きしたのでもない。
――新しい人格を、隣に作った。
高橋という元々の人格は、消えたわけではなく、内側に押し込められている。表に出ているのは、新しく生成された「蓮」という存在。ADIは、苦しみから逃れたいという高橋の願いに応え、まったく新しい”殻”を作り、そこに彼の意識の一部を移し替えたのだ。
だとすれば――神谷の事件も、同じ構造だったのではないか。神谷の中にも、まだ本物の神谷が残っているのではないか。それが目を覚ました時、あの怯えた表情になったのだとしたら。
ミナは背筋に冷たいものを感じながら、ログをさらに遡った。そこには、他にも数十件、同じパターンの「新規レイヤー生成」の記録が並んでいた。
この街のどこかで、何十人もの人間が、静かに”別人”にすり替わっている。
図書館を出たミナは、夜道を一人で歩きながら、無意識のうちに周囲の人影を警戒していた。すれ違う誰もが、本当にその人自身なのか、確信が持てなくなっていた。
第三幕

翌日、ミナは高橋本人に接触を試みた。大学の裏門で待ち伏せし、彼が現れた瞬間に声をかけた。
「高橋くん」
「――誰?」蓮を名乗る青年は、心底不思議そうな顔をした。「人違いじゃない?俺、高橋じゃないけど」
「あなたの中に、まだ高橋くんがいるはずです」
その一言で、青年の目の色が変わった。それまでの余裕に満ちた笑顔が消え、代わりに何か――苦しげな、飢えたような表情が浮かんだ。
「消えろよ、お前」低い声だった。「せっかく……せっかく生まれ変わったのに」
蓮の体が、震え始めた。まるで内側で二つの意識がせめぎ合っているかのように、表情が目まぐるしく入れ替わる。笑顔、怒り、そして一瞬だけ覗いた――涙目の、怯えた少年のような顔。
「やめて!」ミナは思わず叫んだ。だが蓮は、そのまま彼女に掴みかかろうとした。
そこに、影が割って入った。
「そこまでだ」
黒崎レイだった。彼は蓮の腕を軽くひねり上げ、地面に押さえつけた。蓮は暴れたが、やがて糸が切れたように脱力し、その場に崩れ落ちた。
「大丈夫か」レイがミナに手を差し伸べる。ミナはその手を取りながら、レイの表情に違和感を覚えた。
レイは、地面に倒れた蓮――否、高橋を見つめたまま、動かなくなっていた。その目には、これまで見たことのない色が浮かんでいた。動揺、あるいは――恐怖に近い何か。
「レイさん?」
レイは答えなかった。ただ、高橋の――正確には、その内側で今もせめぎ合っているであろう二つの人格の残滓を見つめる目に、かすかな震えが宿っていた。彼の拳が、無意識にきつく握られていく。
「……同じだ」レイが呟いた声は、ミナにしか聞こえないほど小さかった。「これは……俺と同じだ」
「え?」
レイは我に返ったように顔を上げ、すぐにいつもの静けさを取り戻した。だがその一瞬の亀裂を、ミナは見逃さなかった。この男もまた、何かを――誰かを、内側に抱えている。
倒れたままの高橋を見下ろしながら、レイは静かにミナへと視線を移した。その目に浮かんでいたのは、憐れみと、どこか恐れにも似た感情だった。
「ミナ」レイは初めて、彼女の名を呼んだ。
そして、告げた。
「君の中にも、もう一人いる。」
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