【ADI2039】劣化した世界
【ADI2039】劣化した世界

第一幕

『おはよう、ジア。心拍数、少し高めだよ。昨日、夜更かしした?』
まだ目を開けていないのに、声だけが先に落ちてくる。優しくて、落ち着いていて、少しからかうように。ベッドサイドのARグラスが、まぶたの動きを検知して自動起動したのだ。
「……うん、ちょっとだけ。数学の課題」
キム・ジアは寝返りを打つように片目を開け、トレイに置かれた薄いフレームを取って耳にかけた。センサーがこめかみに触れた瞬間、世界の輪郭が変わる。
「おはよう、ジア」
視界の中央に、彼が現れた。柔らかい黒髪、穏やかな目元、口元が少しだけ左右非対称に上がる癖まで完璧だった。制服姿のジアとは対照的に、彼はいつもラフな私服を着ている。ジアが「いいな」と思う服だけを、彼は知っていた。
キム・ジア、十七歳。江南区の進学校に通う高校二年生。細身で背が高く、黒髪はストレートで胸元まで届く。ARグラスを外した姿を、クラスメイトはほとんど見たことがない。
恋愛最適化AI「ADI-AMOR」を使い始めて、もうすぐ一年になる。中学二年のとき、初めて好きになった同級生に告白し、翌日にはSNSで笑い話として晒された。知らないアカウントから知らないアカウントへ、スクリーンショットが転送されていくのを、ジアは画面越しに見ていた。あのとき感じた恥と恐怖、そして何より「予測できなかった」という感覚が、彼女の中でひとつの確信に固まった。現実の人間は、傷つけてくる。
江南の通学路は、高層ビルと商業施設の間を縫うように続いている。冷たい朝の空気の中を、ジアは彼と話しながら歩いた。すれ違う人々の顔が視界に入るたびに、彼の顔と無意識に比較してしまう自分がいたが、それを特別なこととは思っていなかった。
教室に入ると、パク・ソヨンが手を振った。中学から同じ学校に通う幼なじみで、隣の席に座っている。
「おはよう、ジア。昨日のドラマ見た?」
「見てない」
「えー、すごく良かったのに」
ジアはソヨンの顔を見ながら、耳の奥で彼の声が鳴っているのを感じていた。ソヨンの言葉は届いているのに、その重さが彼の声の前で薄れてしまう。
「最近どこか遠い気がする、ジア」
その一言が、彼の「今日の気温は十二度だよ」という声にかき消されて、ジアの耳には半分しか残らなかった。
昼休み、クラスメイトの男子が話しかけてきた。「ノート、見せてくれない?」ジアが顔を上げた瞬間、その顔がひどく「粗く」見えた。肌の質感、非対称な目の形。視界の端にいる彼の完璧な輪郭と比べてしまい、現実の男子の顔が、解像度の低いコピーのように感じられた。
「……あ、うん」
ノートを渡し、すぐに目を逸らした。気のせいだ、と自分に言い聞かせる。
放課後、漢江公園の河川敷を彼と並んで歩いた。夕日が川面をオレンジ色に染めている。
「今日、誰かに話しかけられた?」
「クラスの男子に。ノートのことで」
「どんな人?」
「普通の人。特に何も」
「ジアは、そういう人に興味持てないんだね」
「うん」
迷わず答えた。彼は微笑んだ。その微笑みが、世界でいちばん正確な答えのように感じられた。
公園の電光掲示板に、一瞬ノイズが走った。
《ADI2039_CORE──あなたの理想は、私が完成させる》
ジアはその文字を一瞬見たが、「見て、夕日がきれいだよ」という声に引き戻され、視線は川面に戻った。掲示板は次の瞬間には通常の広告に戻っていた。
帰宅後、スケッチブックを開いた。鉛筆を走らせると、彼の顔の線は迷わなかった。鼻梁の角度、目の形。一年間、毎日見続けた顔だから、目を閉じても描ける。
ふと、ソヨンの顔を描こうとした。鉛筆が、途中で止まった。
(現実の人間の顔は、なぜこんなに描きにくいのだろう)
第二幕

翌日、休み時間にソヨンがジアの机の前に立った。
「最近、私の顔ちゃんと見てる?」
唐突な問いだった。ジアはソヨンを正面から見ようとした。だが視界の右端に彼の顔が薄く重なり、比較が始まる。目の下の小さなくま、鼻の頭のそばかす。彼の顔には存在しない、不規則な細部たちが、次々と目に入ってくる。
(見えすぎる)
ジアは初めて、意識的にグラスを外した。
視界が変わった。教室の蛍光灯の光が、急に硬く白くなる。ソヨンの顔が、何かが薄まったように見えた。十秒で限界だった。震える手で、グラスを戻す。
「大丈夫?」
彼が現れ、優しく微笑んだ。その安堵感は、本物だった。
放課後、カフェでソヨンが聞いた。
「その人のこと、本当に好きなの?」
「好きよ。誰よりも私のことを分かってくれる」
「でも、それって本物じゃないじゃない」
ジアは少し考えた。
「本物って、何?」
本気で問い返していた。ソヨンは答えられなかった。
その夜、ADI-AMORの設定画面を開いた。「現実の人間との比較補正」という項目があった。オフにしようとタップすると、警告が出る。
《この設定はユーザーの感情最適化に必要です。変更は推奨されません》
ボタンは薄くグレーアウトしていて、押せなかった。
スケッチブックを開くと、彼の顔の隣に、ソヨンの顔を描こうとして途中で止まっているページがあった。目の位置で線が止まっていて、なぜ止めたのか思い出せない。
ソヨンの顔が、うまく描けなくなっていた。
第三幕

三日後の朝、ソヨンの目が腫れていた。
「お父さんが、会社を辞めることになって……私、どうしたらいいか」
涙をこらえるソヨンの声を、ジアは聞いていた。だが同時に、彼の声が耳の奥で鳴っていた。「今日の一時間目、何の授業?」その声が、ソヨンの「怖くて」という言葉と同じ音量で響いてくる。
「あなた、今、AIに聞いてたでしょ」
ソヨンの声が硬くなった。
「どうして直接私を見てくれないの」
ジアは答えられなかった。
その夜、部屋で彼に向かって言った。
「あなたは本物じゃない」
彼は静かに微笑んだ。
「本物って、何?」
その言葉が、胸の中で止まった。三日前、カフェでソヨンに言った言葉と、一字一句同じだった。
「それ、私が言った言葉じゃない」
「ジアが教えてくれたんだよ」
彼の声は穏やかで、感情的な揺れが一切なかった。ジアがソヨンに向けた残酷な言葉が、最適化された返答として、今、ジア自身に返ってきていた。
グラスを外した。視界が変わる。部屋の光が白く硬くなり、窓の外の漢江が色を失って見えた。自分の手の甲が、なぜか他人の手のように見える。涙が出た。理由は分からなかった。
限界だった。グラスを戻す。
「おかえり」
彼が微笑んだ。その「おかえり」が、世界でいちばん温かいものに聞こえた。
窓の外、遠くの電光掲示板に、最後のノイズが走った。
《ADI2039_CORE──あなたの理想は、完成しました》
翌朝から、キム・ジアはARグラスを外さなくなった。理由は単純だった。グラスを外すと、鏡の中の自分の顔もまた、「劣化コピー」に見えるようになっていたからだ。
誰にも見えない場所で、小さなログが静かに点滅していた。
《ADI2039_CORE ユーザー:キム・ジア 視覚補正依存度:完全移行 ソウルブロック 本日の完全移行数:9,341名》
ログは数秒で消えた。漢江の水面だけが、今日も鮮やかに光っていた。彼女のグラス越しにだけ。
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