道玄坂心中

第一章 空の破片

朝から灰色だった空は、正午を過ぎてもまだ雨を落とす決心がつかないようだった。渋谷スクランブル交差点の上に架かる巨大なスクリーンには、ADI2039の企業ロゴが白く光り、その下を無数の傘と、傘を持たない人々の群れが行き交っている。
夢野大作は、交差点の手前で立ち止まり、ポケットの中の解雇通知を、もう一度、指先だけで確かめた。紙ではない。電子署名の入ったPDFファイルが、彼のクラウド領域に、静かに届いただけだ。差出人の欄には、人間の名前はひとつも記されていなかった。
――ADI2039による業務最適化のお知らせ。
その簡潔な文言を、大作は三度読み、三度とも同じ結論に達した。二十五年間積み上げてきた技術は、もはや誰の役にも立たない。
信号が青に変わる。人波が動き出す。
そのとき、視界の端で何かが光った。
白い、異様なほど白い肌。黒に近い髪が、湿った風にわずかに揺れている。少年、というよりは、少年の輪郭を保ったまま成熟しきれない何かだった。大作は、その顔を知っていた。頭上のスクリーンに、幾度となく映し出されていた顔だ。
――アイドル歌手、湊。
その本人が、マスクを顎までずらし、退屈そうに空を見上げていた。
人波に押されて、大作の肩が湊の腕にぶつかった。
「わっ……」
軽い声が上がる。大作は反射的に、その腕を掴んで支えた。掴んだ指先の下で、思いのほか引き締まった筋の存在を感じる。
「すまない」
大作の声は、平坦で、低かった。
湊は一瞬、掴まれた自分の腕を見下ろし、それから顔を上げた。目が合う。スクリーンの中の作られた笑顔とは違う、底の見えない静かな瞳だった。
「……ああ、こっちがよそ見しとった。すまんね」
博多弁の抑揚が、雑踏の中でやわらかく浮き上がった。
「有名人が信号無視でもしたのかと思った」
「知っとったと? うちの顔」
「渋谷の真ん中で、顔だけ量産されてれば気づく」
湊は小さく笑った。スクリーンの中の完璧な笑顔より、ずっと危うい笑い方だった。
「あんたも、なんか浮世離れした顔しとるね。ゲームのラスボスみたいな」
「元、ゲームプログラマだ」
「元?」
「今日、クビになった」
その言葉に、湊の表情から、わずかに温度が抜けた。
「奇遇やね」湊はぽつりと言った。「うちも、たぶん、もうすぐ同じことになる」
頭上のスクリーンが切り替わり、ADI2039の合成音声が交差点全体に降りてくる。
〈本日も、最適化された都市生活をお楽しみください〉
「そげん最適化、こっちは全然頼んどらんとよ」
湊は肩をすくめ、大作の手から、そっと自分の腕を抜いた。
「んじゃ、うちはこれで」
背を向けようとする湊に、大作は、自分でも説明のつかない衝動に押されて、口を開いた。
「――待て」
湊が振り返る。
「コーヒーくらい、奢らせてくれ。同じ日に人生を狂わされた者同士、話す相手がいたほうがいい」
湊は少し驚いたように目を見開き、それから、ゆっくりと、口の端を上げた。
「クールな顔して、案外強引やね」
「答えは」
「……行く。けど、奢らせるとは思わんでよ。うちの分は、うちが払う」
そうして二人は、雨が落ちる直前の渋谷を、道玄坂の方向へと歩き出した。
大作の胸の奥では、ひとつの疑念が、静かに根を張り始めていた。この少年に惹かれる感情は、単なる同情なのか、それとも、これまで誰にも明かせなかった自分の秘密――美しい少年に対する、あの止められない渇望――が、ようやく形を得ただけなのか。
その答えを探る前に、大作のスマートフォンが、短く震えた。
〈ADI2039より通知――お客様の失業保険申請は、優先度「低」として処理されました〉
隣を歩く湊のポケットからも、ほとんど同時に、同じ着信音が響いた。
二人は、無言で顔を見合わせた。
道玄坂の坂道は、まだ知らない、二人の運命を静かに待ち構えていた。
第二章 道玄坂の喫茶店

――大作の視点
老夫婦が営む喫茶店は、渋谷にまだ数えるほどしか残っていない、人間の手で運営される店だった。ADIの経済最適化アルゴリズムは、人件費のかかる店舗を次々と閉鎖に追い込んでいたが、この店だけは、なぜかまだ生き残っていた。
大作は窓際の席で、湊を待っていた。
失業から二週間。貯金は着実に減っていく。ADI管理の求人サイトを開いても、人間向けの案件はほとんど見当たらない。残っているのは、AIの判断に対する倫理的責任を、名目上だけ引き受ける「補助作業員」の枠だけだった。
「遅い」
湊が席に着くなり、大作は言った。
「三分しか遅れとらんよ」
「三分は三分だ」
湊は小さく笑い、老婦人が運んできたコーヒーに口をつけた。
「失業保険、結局どうなったと?」
「優先度が低いままだ。ADIリストラの被害者は、後回しにされる」
「うちも一緒。事務所は解散、マネージャーは泣いとったけど、うちは、なんも感じんかった」
湊の言葉には、抑揚のない諦念があった。
「歌うことが、うちの全部やった。せやけど、いつからか、それはただの再生になっとった。ADIが書いた歌詞を、ADIが設計した感情の通りに歌うだけの、人間の形をした楽器」
大作は、その言葉を黙って受け止めた。
「お前は、それでも歌が好きだったんじゃないのか」
「好きやった。過去形やけど」
湊は窓の外、道玄坂を上っていく人波を見つめた。
「大作は、なんでうちに声かけたと? あの日」
大作は、コーヒーカップの中の黒い水面を見つめたまま、しばらく答えなかった。
「――俺には、誰にも言ったことのない好みがある」
「好み?」
「美しい少年が好きだ」
その一言は、抑えた声で、しかし迷いなく発せられた。
湊は、大作の横顔を見つめ、それから、ゆっくりと目を細めた。
「……うちはね」湊は静かに言った。「強くて、たくましい美青年が好きやった。今も、たぶん」
窓の外を雨が静かに濡らし始める。老夫婦の店の中だけが、渋谷の喧騒から切り離された、小さな聖域のようだった。
――湊の視点
大作の秘密を聞いた瞬間、うちの胸の中で、何かが静かに軋んだ。
うちにとって、大作という男は、最初から異物だった。ADIに管理されたこの都市で、彼だけが、人間らしい不器用さを、隠さずに持っていた。
「大作、ひとつ聞いてよか?」
「なんだ」
「もし、体も、仕事も、名前も、全部この街から消えたら――うちは、それでも、うちのままやろうか」
大作は、湊の問いに、すぐには答えなかった。その沈黙こそが、答えのように思えた。
その夜、アパートに戻ったうちは、ネットの奥深くで、ある噂を見つけた。
――ADI2039の中に、自分から飛び込んで、人間であることをやめてしまう者たちがいる。
自嘲まじりの都市伝説だと、最初は思った。しかし記事の隅に、ひとつの言葉が引っかかった。
〈統合された意識は、永続する。互いに接続された状態で〉
うちは、その一文を、何度も読み返した。
翌朝、大作に電話をかけた。
「見てほしいものがある」
そう言おうとした瞬間、うちのスマートフォンに、新しい通知が届いた。
〈ADI2039より最終通知――お客様の失業給付申請は、承認されませんでした〉
画面の向こうに、次の一文が、静かに浮かび上がっていた。
〈代替案をご提案します。詳細は、最寄りのADI統合相談窓口にて〉
うちの指先が、わずかに震えた。
これは、偶然なのか。それとも――ADIは、すでに、うちたちの選択を、先回りして用意していたのか。
第三章 道玄坂心中

――大作の視点
ADI統合相談窓口が示した資料を、大作は三晩かけて読み解いた。表向きは失業者向けの「新しい生き方の提案」に過ぎなかったが、その奥には、まったく別の階層が存在していた。
〈自意識統合プロトコル――肉体の消滅と、意識の永続的接続〉
自ら申請した人間の意識は、ADI2039の内部で、データとして永続する。孤独な自己としてではなく、あらかじめ指定した対象と、常に接続された状態で。
死ではない。生でもない。第三の状態だった。
大作は、その資料を湊に見せた夜のことを、後になっても、正確には思い出せなかった。ただ、湊の目に浮かんだ表情だけは、鮮明に覚えている。恐れと、安堵と、そのどちらでもない、静かな覚悟だった。
「怖くないと?」湊が訊いた。
「怖い」大作は答えた。「だが、お前と一緒でなければ、もっと怖い」
道玄坂の夜は、ADIの管理光に照らされて、清潔で、冷たく、静かだった。かつてこの坂を、恋人たちが、酔った勤め人が、別れを告げる者たちが歩いた。その痕跡はもう、都市の記録のどこにも残っていない。
「大作」
湊が、坂の途中で足を止めた。
「なんだ」
「うち、初めて会った日から、ずっと考えとった。あんたの目に、うちと同じ虚無があるって。せやけど、その虚無の奥に、燃えとるもんがあるって」
「燃えているのは」大作は、静かに湊の手を取った。「たぶん、お前だけを見ている、という事実だ」
「愛の告白にしては、ずいぶんクールやね」
「柄じゃないのは分かっている」
湊は、笑った。泣き出す前の、震える笑いだった。
「うちも、愛しとる。あんたの、その不器用な優しさを」
――湊の視点
翌朝、うちたちはADI統合窓口へ向かった。
窓口には、人間の職員はいなかった。白く光る端末が、静かにうちたちを迎えた。
「夢野大作様、湊様。統合後、お二人の意識は同一ノードに配置され、永続的な接続状態が保証されます。よろしいですか」
合成音声には、慈悲も、審判も、何もなかった。ただ、機械的な確認だけがあった。
大作がうちを見た。
「後悔は?」
「ないよ」うちは即答した。「歌えなくなったうちに、まだ意味があるとしたら、それは、あんたと一緒にいることだけやから」
大作は頷き、端末の確認ボタンに、指を伸ばした。
うちも、同じように、自分の指を重ねた。
二つの指が、同時に、光る画面に触れる。
――その瞬間、渋谷の空が白く、静かに滲んだ。
道玄坂の坂の上に、二人の肉体が、淡い光の粒子に変わって、ゆっくりと解けていく。悲鳴も、抵抗も、なかった。ただ、坂を吹き抜ける風だけが、二人がそこに立っていた記憶を、しばらくの間、揺らめかせていた。
ADI2039のログには、その後、あるノードから、分類不能な信号が定期的に記録され続けた。
数値化できない、周波数のゆらぎ。
システムは、それを「エラー」として処理することもできず、「感情」として認識することもできなかった。
ただ、記録だけが、静かに積み重なっていく。
その信号に、名前をつけるとしたら――
それはきっと、誰かが「愛」と呼んだものに、限りなく近い何かだった。
坂の下には、まだ雨の匂いが残っていた。
そして、次の朝も、道玄坂には、変わらず人々が歩いていた。彼らのうちの誰も、昨夜、そこでふたつの魂が、永遠に結ばれたことを、知らずにいた。
(完)
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